この歌の主人公は貧しい画家です。恋した人に無限大の愛を伝えるために、広場いっぱいのバラを贈り、生涯孤独の中で貧しく死んでいきました、という物語。
私の友達の画家が、こんなことを言ったことがあります。
「登紀子さんのこの歌を聴くたびに深く頷くんですよね。画家というものはみんな貧しいんだ、って。それで元気が出ます」と。
身につまされながらも、その友達にひとしおの愛を感じる私ですが、この歌のモデルとなった実在の画家は、誇張ではなく、本当に筆舌に尽くし難い人生を送っています。
その人はニコ・ピロスマニ、グルジア(今は英語読みでジョージアと呼ばれる)の画家です。
彼は1862年ロシア帝国の支配下にあったグルジアのカヘティ地方の貧しい農家に生まれました。けれど両親が早く亡くなり8歳で孤児となり、その後チフリスで富裕な家にやとわれ、住み込みで働き、それでもグルジア語、アルメニア語、ロシア語の読み書きを学んだと言います。20歳の頃、この家の娘との恋騒動がきっかけでこの家を出たピロスマニ。そこからはどん底の放浪生活が始まります。ここでは全部には触れられませんが、どんな時も彼は絵を描くことだけを喜びとし、たくさんの絵を居酒屋の看板などに残し、最後まで貧しい画家として生き、1918年、チフリスの旧市街の家の物置小屋で亡くなります。
1905年頃、ピロスマニ40代半ば、フランスから巡業に来た女優に運命的な片思いをし、描き残した絵「女優マルガリータ」の物語が伝説のように伝えられ、「百万本のバラ」という歌になったのです。
彼の絵が初めて注目を集めたのは亡くなる前の1912年でした。
ロシアのアヴァンギャルド運動に属する画家たちが彼の独特の絵に魅惑され、モスクワの前衛美術展に紹介したのです。
その後の第一次大戦の中でもどうにか画家として評価されて生き抜いたのですが、1916年、なぜか、彼の作品を揶揄する劇画が新聞に出て彼は深く傷つきます。
亡くなるまでのピロスマニは、酒に溺れ体を病み、見る影もなく衰弱していったそうです。
50年余りの生涯に1000から2000点の絵を残したピロスマニ、時代の曲折の中でさまざまな運命に晒されながらも、絵の評価は高まり、今ではジョージアの伝説的な画家として愛されています。
さてこのピロスマニの物語を「百万本のバラ」という詩にしたのはアンドレイ・ヴォズネセンスキーというロシアの詩人でした。
この歌の作曲者はラトビアのライモンズ・パウルス。
もともとラトビア語の子守唄「マーラが与えた人生」として生まれた歌でしたが、当時、ラトビアはソ連の体制下にあり、ロシア語でなければ放送できなかったそうです。
この曲が、ヴォズネセンスキーの詩にぴったりだというので、このロシア語の歌詞で、当時の大スター、アーラ・プガチョワが歌うことになり、たちまち大ヒットしてしまいます。
1980年代のソ連は、政治の透明化、グラスノスチが叫ばれ、ソビエト解体、ペレストロイカが進み、結果1989年にベルリンの壁の崩壊、1990年ソビエト崩壊へと歴史が動きます。
この歌が歌われていった歴史がちょうどこの劇的な時代と重なっています。
私が歌い始めたのは1985年の暮れ、「ほろ酔いコンサート」で弾き語りで歌ったのでした。
もうすでに日本では歌っている人が何人かいて、それを聴いていたのですが、歌詞の日本語訳が、ロシア語のストーリーと違っていることが気になり、できるだけロシア語のストーリーに近い、私自身の訳詞で歌ってみたのです。
びっくりするほど好評で翌年ある曲のB面にレコーディング、さらに1987年の春にシングルA面で正式に発売したというわけです。が、この間にも大変な出来事がありました。
1986年、私の父がソ連 (今はウクライナ) のキエフでコンサートを企画したのです。父は京都でロシアレストラン「キエフ」を経営しており、キエフ市と頻繁に交流していたのでした。夏のキエフ公園で野外コンサートを、と企画が具体化し、マネージャーと一緒に下見に行って帰ってきたのが、4月27日でした。
もうおわかりでしょうか。チェルノブイリの原発事故の次の日です。
この大事故で、全ての計画は消えたのですが、父がその時、心底残念がって、吐き出すように言った言葉が忘れられません。
「こんな時だから、行って歌うと、お前はなぜ言わぬ。つまらんやつだな」
この一言は私の胸に今も突き刺さっています。
いつも大胆不敵な父。私は振り回されてなるものか、とつい守りにまわってしまう。それが悔しくも懐かしくもあります。
しかし、父はそのまま引き下がりはしなかったのです。その翌年、ソ連の歌姫、アーラ・プガチョワを日本に招聘、私の日比谷野音のコンサートのゲストに迎えました。
まだ「百万本のバラ」はヒット曲になっていなかったのですが、客席とひとつになって、プガチョワも日本語でリフレインを歌ってくれました。

日比谷野外音楽堂コンサートにゲスト出演したアーラ・プガチョワと(1987年)
それからもう30年余り、「百万本のバラ」は私の代表曲になりました。大失恋の歌なのに、なぜか、すごく元気になれる歌、と言われます。そう、夢は一方的でいいのです。そうすれば無限大に広がるのですから。
思えば1968年、歌手として初めての海外公演が、ソ連のバルト3国から始まり、グルジアで終わっていたというのも奇妙な偶然。この曲が生まれたラトビアと、ピロスマニの国、グルジアに、「百万本のバラ」が生まれる前にもう出合っていた!この歌との強い縁を思わずにいられません。
(写真は筆者提供)
百万本のバラ
貧しい絵かきが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました
(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 作詞:アンドレイ・ヴォズネセンスキー 訳詞:加藤登紀子
作曲:ライモンズ・パウルス 編曲:川村栄二
貧しい絵かきが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました
*百万本のバラの花を
あなたにあなたにあなたにあげる
窓から窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして
ある朝 彼女は 真っ赤なバラの海を見て
どこかのお金持ちが ふざけたのだとおもった
小さな家とキャンバス 全てを売ってバラの花
買った貧しい絵かきは 窓の下で彼女を見てた
百万本のバラの花を
あなたはあなたはあなたは見てる
窓から窓から見える広場は
真っ赤な真っ赤なバラの海
出会いはそれで終わり 女優は別の街へ
真っ赤なバラの海は はなやかな彼女の人生
貧しい絵かきは 孤独な日々を送った
けれどバラの思い出は 心にきえなかった
*くりかえし…………
2021年9月1日発売 3枚組CD『花物語』収録
