《放浪の歌》 知床旅情
 森繁久彌さんが1960年、映画『地の涯に生きるもの』のロケを終了した時、知床の地元の人に万感込めて贈った歌です。
 この映画は、前年の4月6日、羅臼の漁船50隻が嵐に巻き込まれ、90人近い乗組員が亡くなった大きな海難事故があったことを知った動物作家の戸川幸夫さんが書いた小説「オホーツク老人」を読んだ森繁さんが映画化した、貴重な映画でした。
「駅前シリーズ」や「社長シリーズ」で押しも押されもせぬ大スター、どちらかというと喜劇役者として逸材だった森繁さんが、命がけで取り組んだ大作といってもいいと思います。
 映画としてはあまり知られていないのが残念ですが、そのかわりにこの「知床旅情」が、思いを伝え続けてきたのだ、と思っています。
 私がレコーディングしたのは1970年、『日本哀歌集』というアルバムに収録、当初「西武門哀歌」という沖縄の歌のB面の曲としてシングル発売されました。
 歌が生まれてから10年、当時「カニ族」といって若者たちが大きなリュックを背負って、ユースホステルに泊まりながら、田舎を歩くのが流行っていて、知床では、そんな旅人に必ずバスガイドさんがこの「知床旅情」を聴かせたそうです。
 そんなことがきっと大きな伏線になっていたのでしょう。
 70年11月にシングル発売された翌年の正月、レコード会社の新年会で、こんなことが囁かれていました。
「なぜだか、変な動きがあるんです。B面の『知床旅情』に火がついたみたいです」
 何の宣伝もしていないのに、という意外な形で1971年には大ヒット曲になり、年末にはレコード大賞歌唱賞を受賞するまでになりました。

発売当初の「西武門哀歌」がA面のシングルと、「知床旅情」がA面のシングル

 今もこの歌との出合い、そして森繁さんとの出会いは、私の人生を運命づける出来事だったことを、大きな感慨の中で思います。
 この歌を私に初めて歌ってくれたのは、藤本敏夫でした。
 1968年の3月、東大の卒業式が学生によってボイコットされた時、私がその真っ只中にいることになった奇跡から、この物語は始まります。
 当時反帝全学連(全国大学自治会連合)のリーダーだった藤本が私に会いに来て、学生の集会に来てくれないか、と提案。その提案を私は断ったのでしたが、3日後に2人だけで会おう、ということになって、一晩飲み歩いた後、今も私が住んでいる千駄ヶ谷のマンションの屋上で、彼は「知床旅情」を歌ってくれたのです。
知床の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちのことを
 彼の歌う「俺たち」にはなぜか胸に沁みるような寂しさがあり、私は言葉にならないほど、感動しました。
 デビューから試行錯誤の続いた3年、見失っていた歌の力を思い知らされたような衝撃を受けたのです。
 学生運動の先頭に立ち、デモのたびに拘置所に入れられる藤本敏夫を見守りながらの1968年から1969年の1年。
 私は歌手であることに悩み続けていました。
 69年3月の雪の日、やっとたどり着いた歌「ひとり寝の子守唄」が、思いがけず認められ、レコーディングすることになり、そして秋も深まったある日、「あゆみの箱」というチャリティコンサートでこの歌を歌った時、驚いたことに森繁久彌さんが、舞台の袖で、私を待ち構えていて、抱き締めてくださったのです。「あんたは僕の心とおんなじ心で歌ってる」と。
 何という素晴らしい偶然でしょうか。
 この出会いがあってから、私はステージで弾き語りのたびに、「知床旅情」を歌うようになりました。
 そして今もずっと、です。
 それから50年、森繁さんと私の縁、藤本とこの歌の縁、さまざまな偶然が不思議でなりません。
 森繁久彌さんの没後10年、2019年に出版された「全著作〈森繁久彌コレクション〉第1巻」を読んでいて、思わず声をあげそうになった箇所がありました。

森繁久彌さんの著書

 知っているはずの森繁さんの人生、改めてたどってみると、知らないことだらけ。
 まず生まれは京都と大阪の間の枚方市。そうか、あの独特のユーモアのセンスには関西の血が流れている、と納得。
 そして5歳の時に、今の甲子園の近くの鳴尾村に引っ越し、鳴尾小学校に転校…。
 ここでびっくり。鳴尾小学校は藤本敏夫の出身校なんです。
 ただの偶然に違いないけれど、グッと来ちゃう私です。
 この本の中には、森繁さんが満洲でアナウンサーとして働き、終戦後の混乱を乗り切っていく壮絶なシーンもいっぱい書かれていますが、1946年の引き揚げの話にまたすごい発見がありました。
 森繁さんが引き揚げ船からやっと佐世保に上陸したのは「昭和21年10月21日」とありました。その前に「検疫のために数日の生活が船に続いた」とありますから、多分引き揚げ船が佐世保港に着いたのは16日くらいか。
 私の家族が船で佐世保に着いたのは、その昭和21年10月16日なのです。
 果てしもなく広い、無限大の可能性の中を生きているはずの私たちが、こんなにも偶然の糸で結ばれていていいのか? とさえ思います。
 ひとつの歌を通して、離れているはずの人生が深く繫がっていく! それが歌の力なのでしょうか!

森繁久彌さんと

(写真は筆者提供)

知床旅情
作詞・作曲:森繁久彌 編曲:告井延隆
知床の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちの事を
飲んで騒いで 丘にのぼれば
はるかクナシリに 白夜は明ける
旅の情か 酔うほどにさまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと
岩かげに寄れば ピリカが笑う
別れの日は来た 知床の村にも
君は出てゆく 峠をこえて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いカモメを
白いカモメを
 2021年9月1日発売 3枚組CD『花物語』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 
この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。