《恋する日々の記録》 難破船
 潮の満ち引きみたいなものでしょうか⁈
 気がつかないうちに、何かが満ちてきて、取りかれたように曲を作り始めることがあります。
 こうして長い歳月を見渡すと、どうしてあの時あの歌を作ったのか、あのアルバムはなんだったのか、思い出せないことも。
 1984年の『最後のダンスパーティ』は、そんなアルバムのひとつかもしれません。
 全曲書き下ろしの新作で、ムーンライダーズのギタリスト、白井良明のプロデュース。ベーシックを打ち込みサウンドで、最先端を目指した、その狙いは素晴らしかったはず。
 なのに、その「とんがった」感じが、あんまり歓迎されていなかったことに私は気づかず、アルバム作りの楽しさにのめり込んでいました。
 出来上がった時、嬉しくて嬉しくて、アルバムリリースのショーケースライヴを渋谷のライヴハウスで開いた時、いつも応援してくれていた音楽記者の姿はなく、なかなか人を集められないという状況。そっと親しい記者が呟いたのは、「おときさん、もう僕たちは書けないよ。ジャンルが違うんだ」。
 そんなことがあるのか、と驚いた私。納得のいかない私でしたが、今思えばポピュラーソングとしては、なんとなく受け入れにくいテーマだったかもしれないとわかるような気がします。なんといってもアルバムタイトル曲「最後のダンスパーティ」の歌詞が不吉です。
この世の終わりの時 それは無限の海
残された小さな港から 最後の船が出て行く
 80年代は何か、20世紀末を先取りするような末世観が漂っていて、こういう怪しさが普通に語り合えたような気がしますが、2022年の現在地から見ると、日本はバブルに向かう好景気の真っ只中で、今より遥かに未来は明るかったはず。今の方がこのテーマは合っている気がします。

1984年12月1日発売『最後のダンスパーティ』

 さて、このアルバムの中に一曲だけ、思い切り熱烈なラブソングを、と収録したのが「難破船」でした。
 この歌は、曲が先にできていました。譜面ノートに思いつくままに書き留めたメロディ、何度読み返しても、なかなかいいかも、と丸印をつけたそのページ。でも歌詞がどうしてもできなくて、見送っていた曲でした。
 ある日、曲の冒頭にノートの譜面にはなかった3音、「たかが」というアフタクト(前の小節の終わりからフレーズをスタートさせること)をつけたことでメロディにキッパリと踏み込めることに気がついたのです。
「たかが恋なんて」という、その一言で歌詞が一気に見えました。
たかが恋なんて 忘れればいい
泣きたいだけ 泣いたら 
目の前に違う愛が見えてくるかもしれないと
そんな強がりを言ってみせるのは
あなたを忘れるため
さびしすぎて こわれそうなの
私は愛の難破船
 この歌詞に描いたのは、私の20歳の頃の恋の思い出でした。
 奥手だった私が初めてキスをして、夢中になった恋。
 学校も演劇活動(当時東大演劇研究会のメンバーだった)も、全部かなぐり捨てて、恋に専念したのでした。
 もともと大杉栄の信奉者で、自由恋愛主義者だったその人を愛した私は、私自身も自由恋愛をやり遂げようと踏ん張って、次々と彼に恋人ができても、「行ってらっしゃーい」という風に見送ったりしていたのでした。
 私だって自由でいたいのだから、とその関係を心地よくも感じ、プライドも持っていました。
 この辺はやっぱりエディット・ピアフの影響もあったかもしれません。
 数知れない恋をしたエディット・ピアフは、どんな時も恋の素晴らしさの極限を求め続けたのです。少しでもその恋に影が見えた時、彼女は自分から別れを告げ、キッパリと終わらせる、それを鉄則としていました。
 実は、私もその鉄則を守ったのです。
 その大好きな彼にサヨナラを言ったのは、どうしてだったか、正確には思い出せないけれど、とにかく、ある日突然にこの恋にピリオドを打ったのでした。
 自分で終わりを決めていながら、その破局にのたうちまわったことを鮮烈に覚えています。
 それから約20年、その思い出のシーンを描いたのが「難破船」なのです。
たかが恋人を なくしただけで
何もかもが消えたわ
ひとりぼっち 誰もいない
私は愛の難破船
 最後の行まで嵐のような恋を描くことができた、と思います。ステージでもこの歌をうたっている時は特別の気持ちになりました。
 でも2、3年過ぎたある日、テレビに出演している中森明菜さんが22歳の誕生日をみんなに祝ってもらって、それなのに辛そうな顔で「全然嬉しくないです」と言っているのを見た時、「アッ」と閃きました。20歳の恋にピリオドを打った「難破船」の主人公は、この人だ!と。
 音楽番組のスタジオで明菜さんはいつもみんなから離れた暗いところに、ポツンといるような人で、その佇まいがなんか好きで、そんなある日、私は「難破船」のカセットを彼女に手渡したのでした。
 1987年、この歌を中森明菜さんが歌い、「難破船」はあの素晴らしいドレスも、歌う表情も伝説のように記憶される大ヒットソングとなりました。
 その後もたくさんのシンガーによってカバーされ歌い継がれていることは、とっても嬉しいです。
 恋は、うまくいかなくても貴重な思い出は残ります。
 果敢に恋をして、キッパリと別れましょう!(笑)
(写真は筆者提供)

難破船
 作詞・作曲:加藤登紀子
たかが恋なんて 忘れればいい
泣きたいだけ 泣いたら 
目の前に違う愛が見えてくるかもしれないと
そんな強がりを言ってみせるのは
あなたを忘れるため
さびしすぎて こわれそうなの
私は愛の難破船
折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい
海の底へ 沈んだなら 泣きたいだけ 抱いてほしい
ほかの誰かを 愛したのなら
追いかけては 行けない
みじめな恋つづけるより
別れの苦しさ えらぶわ
そんなひとことで ふりむきもせず
別れたあの朝には
この淋しさ 知りもしない
私は愛の難破船
おろかだよと 笑われても あなたを追いかけ 抱きしめたい
つむじ風に身をまかせて あなたを海に沈めたい
あなたに逢えない この街を 今夜ひとり歩いた 
誰もかれも知らんぷりで 無口なまま 通りすぎる
たかが恋人を なくしただけで
何もかもが消えたわ
ひとりぼっち 誰もいない
私は愛の難破船
 1984年12月1日発売『最後のダンスパーティ』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 

この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。