《恋する日々の記録》 ひとり寝の子守唄
 1969年3月12日。「ひとり寝の子守唄」ができた日を覚えています。東京に大雪の降った日で、一切の交通がストップし、仕事がキャンセルになってひとり部屋にいて、身も世もなく淋しかった日でした。
 歌手としてデビュー4年目、前年1968年3月に東京大学文学部を卒業。卒業式ボイコットのデモに参加したことから、当時の反帝全学連委員長の藤本敏夫と出会い、熱い交流を交わす仲になり、しかしその彼も、デモを率いて行動するたびに拘留されることが続き、この時期は、前年の11月7日からの拘置が長引き、年を越し、寒さと闘いながらの日々を送っている、そんな時期でした。
 私の手元には、巣鴨の東京拘置所に拘留されている藤本敏夫からの葉書がありました。
「ぼくの唯一の友達は、朝トイレの蓋をあけると顔を出すネズミくんだ」
 しげしげと眺め、ひとりの時間を持て余した私は、ギターをケースから出して、なんとなく弾いてみたのでした。
 この時、手元にもうひとつ、気になる言葉や曲のタイトルなどを書き留めた手帳があり、そこにあった「ひとり寝の子守唄」という一言に心が留まりました。
 自分で書いたメモなのに、すごい発見をしたような気がして、なんとなく「ひとりで寝るときにゃよ…」と冒頭の歌詞を置いてみて、続きをハミングしながら歌ってみたら、メロディがスルッとできたのです。
 簡単なギターコード(Am G/C Am E7 Dm Am Em Am)で8小節の短い歌。
 ひとりぼっちで眠る時、みんなどうしてる?
 ひとりが寂しい時、どうすればいいの?
 それに答えるような歌詞を作ろうと決めて、それから頭の中で、思いつくままに一番、二番と作っていったのでした。
 五番までの歌詞ができるまでは、1カ月くらいかかったかもしれません。
 一方で歌手・加藤登紀子としては、3月5日に新曲をリリースしたばかりで、忙しくキャンペーンの真っ最中だったのです。
 岩谷時子さんの詞に筒美京平さんが作曲した「つめたくすてて」という曲。ヒットメーカーの作品ということから、気合いの入った宣伝が続いていました。
 作品と私自身がすれ違っている、という苦痛を抱えながらも、表向きにはちゃんと仕事していたのでしたが、そんなキャンペーンで大阪に1週間滞在したある夜、放送関係者や、新聞記者の集まるバーで、私はある人からこう言われたのです。
「あなたは、いつまでこんな歌をうたっているんですか? 恥ずかしくないの? もっとあなたらしい歌、うたってほしいな」
 その時、私はどうやらその人をブン殴ったらしいのです。
「らしい」というのは、全く記憶がないからで、酔っ払っていた私をひとりの新聞記者がホテルに放り込んでくれた記憶だけがありました。
 次の日、その文句を言った人が心配してホテルを訪ねてきて、「僕は36回殴られました」と言って笑ったので、その事実が判明したというわけですが、その人物がフォークシンガーの高石ともやさんのマネージャーであったことから、私の人生は不思議な迷路に突入することになっていくのです。
 この頃、歌謡界ではヒットメーカーが次々とヒットソングを書いていたけれど、アンダーグランドではフォークソングが続々生まれ、そこからのヒットソングも出てきていた、そんな時代でした。
 68年からの全共闘運動で、この69年の東大入試が中止になる、という異変が起こり、あちこちの大学では学生によるバリケード封鎖が常態化していました。
 私はこの日の出会いから、ここにある境界線上を行ったり来たりすることになったのです。
 高石ともやさんとロックアウト中の京都大学のキャンパスに乗り込んで、突撃ライヴを行ったり、藤本敏夫在学中の同志社の新入生オリエンテーションの講演会に乗り込んでいって、ライヴを敢行したり、最終的には、高石ともやと「ジャックス」というロックグループとのジョイントコンサートまで開いたのです。
 ともやさんのマネージャーの「もっと自作のオリジナル曲を出したらいいよ」という提案に励まされて、まだギターもろくに弾けない私が、奮闘することになり、この「ひとり寝の子守唄」をうたう機会が増え、レコーディングして世に出すことにまでなったのです。
 忘れもしない6月16日、「ひとり寝の子守唄」をレコーディングした日、藤本敏夫が8カ月ぶりに東京拘置所から出所してきました。
 その頃、学生運動は悲惨な内部分裂の混乱の中にあり、出所したはずの彼とも連絡が取れずにいたのでしたが、レコーディングも終わった夜遅く、私は新宿のバーでやっと彼に会えたのでした。
 雨の夜、ごった返すバーでこの「ひとり寝の子守唄」のことを話し、うたって聴かせたのでしたが、「こんな淋しい歌、うたうなよ」と言って、プイと出ていって、そのまま戻ってきませんでした。
 今も、この日の彼の行動と気持ちはわからないままです。
 その日から1カ月後の7月16日、地方公演に出ていた私の泊まっていた旅館に藤本から電話があり、「全部終わった。僕は一切の運動から離れる。しばらく会えない。今夜はお前の家に泊めてもらって、関西に帰ることになると思う」と言うのです。
 今、少しずつこの頃の学生たちの動きがわかってくるにつれ、藤本敏夫の置かれた苦境と、計り知れない苦悩が見えてきます。
 彼の周りにいた人たちが、命を落とすまでの学生運動の断末魔の底にいたこの年、「ひとり寝の子守唄」は9月15日に発売され、驚くような反響の中で、私はテレビ番組を走り回り、年末には日本レコード大賞歌唱賞を受賞することになったのです。
 運命の分かれ道。まさにそんな年でした。
 そして藤本が「うたうな」と言ったこの淋しい歌が、私のシンガーソングライターとしての原点になったのです。
 この時代の濃密な寂しさを、私はこの歌をうたう限り、忘れることはありません。

「ひとり寝の子守唄」の頃1969

(写真は筆者提供)

ひとり寝の子守唄
 作詞・作曲:加藤登紀子 編曲:森岡賢一郎
ひとりで 寝る時にゃよォー
ひざっ小僧が 寒かろう
おなごを抱くように
あたためておやりよ
ひとりで 寝る時にゃよォー
天井のねずみが
歌って くれるだろう
いっしょに歌えよ
ひとりで 寝る時にゃよォー
もみがら枕を
思い出が ぬらすだろう
人恋しさに
ひとりで 寝る時にゃよォー
浮気な 夜風が
トントン 戸をたたき
お前を呼ぶだろう
ひとりで 寝る時にゃよォー
夜明けの青さが
教えてくれるだろう
一人者もいいもんだと
ひとりで 寝る時にゃよォー
ララララ…………
…………………
 2021年9月1日発売 3枚組CD『花物語』収録

(JASRAC許諾第9023555003Y38029号) 

この記事を書いた人
加藤 登紀子(かとう・ときこ)
1965年、東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」などヒット曲がある。N.Y.カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、92年にパリのラ・シガール劇場でコンサートが認められ、フランス政府より芸術文化勲章「シュバリエ」が贈られた。女優として『居酒屋兆治』(1983年)に出演。宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としての魅力も発揮。2021年、日本訳詩家協会 会長に就任。
公式ホームページhttp://www.tokiko.com 近著に「哲さんの声が聞こえる」(合同出版)「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版)「自分からの人生」(大和書房)。新譜「花物語」(ユニバーサルミュージック)/YouTube「土の日ライブ」毎月11日配信。